







聴こえてきた自然の音
Life 1
1994年8月から96年10月にかけて、わたしは長野県の八ヶ岳の東側に位置する、佐久町という標高約1000メートルの小さな集落に住んでいました。 抜井川という千曲川の支流沿いに、170年前に建てられたという民家を借り、窓から眺めると落葉松、栗、ナラ、白樺などの山の尾根、庭にはナナカマドやドウダンツツジを目当てに、メジロやウソや大きなヤカンバチといわれるスズメバチなどがいつも一緒に暮らしていました。
そして何と言っても素晴らしいのは、その民家の半地下の部分から常に湧き水が溢れていることです。その清水を利用して2メートルほど水路が引かれて小さな池が作られていて、野生のワサビがいつでも元気にしていました。夏は冷たく冬は暖かいその清水でいれたコーヒーの味は格別でした。
そんなに美味しい水を人間だけが飲んでいられるはずがありませんでした。昼間は一緒に住んでいる犬と猫たちが飲み、夜になると近所のタヌキやキツネの親子たちがよく飲みに来ていました。そんな土地で、私の新しい生活が始まりました。
24年間の東京の暮らしと、11年間の音楽生活から解き放たれた、太陽と月のゆっくりとした時の流れの中で、生きている悦びを感じ始めていました。
長野の暮らしを始める前、学生時代から八ヶ岳には度々訪れていました。貸別荘を利用して、あちこちを動きまわるというよりは、あまり動かずゆっくりと過ごしていました。
空気がおいしいこと、窓から落葉松やモミ、南アルプスがみえること、そして静寂があるだけで充分だったのです。
音楽に携わっていると、周囲の音に神経質なほど敏感になるときがあります。都心部の雑踏、どこにいっても流れるBGM、冷蔵庫のうなる音、テレビの電波、車やバイクや電車の音など人工的な音にことさら敏感で、頭が張り裂けんばかりになります。早起きした朝、ヒヨドリたちが元気に騒いでいる声を聞くとホッとしていました。
山に遊びに行って静寂を経験しているうちに、あることに気が付き、とても恐ろしくなったことがあります。それは私の人生を変える、重要な出来事でした。自分を振り返ってみると、音楽のことしかありませんでした。どこをどう巡らせても、音楽から切り離すことはできませんでした。視野の狭い自分が演奏する音楽に寒気を感じました。
八ヶ岳の観音平という場所を始めて訪れ、静寂のなかで南アルプスの素晴らしい眺望をのぞんで
いる時のことでした。このままの状態で音楽を続ければ、音楽の内容はもちろん、どんな人間になるのか、とても不安に感じました。
その時ほど、目の前の南アルプスや、私の背後にあるモミや落葉松や白樺の森が、とても近くに感じられ、同時にとても愛しく感じられたことはありませんでした。そして、いつまでもここにいたい、と願いました。できることなら、この自然をもっと学び、常に肌で感じていよう、という新たな決意が生まれたのでした。
その後、実際演奏する時、今までの「演奏できるよろこび」に加えて「自然から力を受ける演奏」というテーマを持つようになりましたが、全く満足な結果を出すことはできませんでした。何しろ自然のことを知らなさすぎる、自分の中に何も染み込んでいないのです。
私は「大きな決断を下すときがきた、今まで考えないようにしていたことを実行しなければならない」と直感しました。
そして、大きな不安と恐れと、これから起こるわずかな希望を持って、演奏すること、一切音楽に携わることを絶ったのでした。94年の年の明ける頃の出来事でた。
その後、すぐに山で暮らす手配をして、常に自然に触れていたかったので林業を職業に選び、6月にはほとんど準備は整って、8月10日から待望の“山の暮らし”が始まりました。
森があり暗闇があり、本当の静寂の中で迎えた始めての夜は、それまでの不安と恐れを忘れさせ、音楽を絶つことにあれ程おびえていた自分がとても滑稽に思え、笑いました。そして良く眠れたことを覚えています。
Life 2
さあ、いよいよ林業を主体とした“山の暮らし”が始まります。始めに私が体験した林業について説明したいと思います。
まず一つは、森そのものを「材」とみなして育ててゆき、最終的に柱や梁や板にする仕事です。桧の枝打ちや落葉松の間伐などです。木の一生、森の一生と付き合ってゆく、重要な仕事です。同時に、次の世代に伝えなければならないという、人の一生よりも長く、責任を問われる仕事でもあります。
二つ目は、森からの副産物を作る仕事です。炭や薪やきのこを得るのです。炭はナラなどの木を切り出して、炭小屋で何日もかけて焼きます。その時、草木の虫除けにも使われる木酢液も生まれます。椎茸などのきのこも、ナラを切り出してきのこの菌を打ち込みます。木の乾燥している冬の間の仕事で、ひと夏を越すとたくさんのきのこが顔を出します。
三つ目は、開発に伴った仕事です。ゴルフ場や別荘地、ダムや林道建設などにあたり、大型の重機を使って決められた範囲の森を伐り進んでゆく仕事です。当時、少なからず、自然と共生して森や水を大切にしたいと思っていた私にとって大変ショックで、音楽を再開させる要因になった仕事です。
仕事の分類は違っても、どの仕事も基本は同じです。森を伐倒して、機械を使って林道沿いの土場という材木置き場まで運び出し、大型のトラックに積み込んでいってもらう、という流れです。 それらは肉体的にもかなりきつい仕事には間違いありません。道のない下草の中を、チェーンソーと燃料と弁当と水筒を持って進んでゆきます。どんなにきつい斜面でも行かなくてはなりません。少し歩いただけでも大量の汗がふき出してくるのはもちろん、バラの棘が顔や首に刺さったり、熊に遭遇したりもしました。やっと現場に到着すると、“いっぷく”が待っています。この休憩は最高で、森独特のふかふかな土の上に腰を下ろすと、不思議と森に包まれているような感覚で、以前にも訪れたことがあるような懐かしさでいっぱいになるのです。しかし、いざ仕事が始まれば、危険でいっぱいの世界が待っています。木が倒れるとき枝が折れて頭を直撃し、ヘルメットはかぶっているものの脳しんとうを起こして倒れたり、岩場で滑って背中に大きな三本の傷ができたり、自らのチェーンソーで足を切り、七針縫ったこともありました。
そういった仕事の性質も関係して、若い働き手はほとんどいなく、仕事仲間といえばその道五十年、六十年といった大先輩たちでした。その土地で生まれ育った、自然のことを良く知っている人達でした。彼等は、とても純粋な心を持ち、困難なことをいとも簡単にやり抜く力をもっていました。足腰も非常に強く、山にいる姿はまるでカモシカのようでした。そんな大先輩たちの中で、私は何も知らないヒヨコのように、彼等の後を必死でついてゆくことしかできませんでした。そして、一緒にいるだけで自分がとても素直になり、すべてを受け入れられていることを実感していました。
実際彼等は天気を読んだり、風を読んだりすることができました。方向を知っていました。私がおなかが痛いといえば、キハダという木の皮を取りにいってくれて「少し苦いが、半日くらい噛んどきゃぁすぐ治らぁ」と言って、私のおなかを治してくれました。川での水の飲み方、蜂の巣の取り方や蜂の子のこと、木の草や花の名前など、私が欲しいと思ったことを与えてくれました。唯一、言う事を聞けなかったことは「なぜこんな仕事をわざわざやってるんだ」「若いんだったら、もっと金になる仕事をして楽に暮せばいい」といった類いのものでした。私は、きつくて、不便で、冬には氷点下二十度まで下がる厳しさの中での暮しが、大好きでたまりませんでした。時が経つにつれて、そのような質問はいつのまにか無くなってゆきました。
Life 3
私は、“山の暮らし”の中で、山の人たちとの日々の触れ合いと重ね合わせて、興味をもっていたことがあります。それは、遠くアラスカやアメリカのネイティヴ・ピープル(イヌイットやインディアン)たちの暮しや考え方、彼等の中に深く根ざしている自然と共生してゆく方法、伝統や神話の世界を太古の昔から現在まで守り続けていること、そしてそれらが語り継がれていることに、とても惹かれていました。
人工的なものがほとんどなく、毎日、山や森や川に接していると、不思議とずっと前からこうやって暮している思いがして、まわりのたくさんの仲間たち-不意に出会う野生の動物たちや、木や草や風など-すべてに大きな命が宿っていることを深く実感したのでした。
“魔法の言葉”
ずっとずっと 大昔
人と動物がともにこの世にすんでいたとき
なりたいと思えば 人が動物になれたし
動物が人にもなれた
だから時には人だったり
時には動物だったり
互いに区別はなかったのだ
そして
みんなが同じことばをしゃべっていた
その時ことばは
みな魔法のことばで
人の頭は不思議な力を持っていた
ぐうぜん口をついて出たことばが
不思議な結果をおこすことがあった
ことばは急に生命をもちだし
人が望んだことがほんとにおこった
したいことを
ただ口に出して言えばよかった
なぜ そんなことができたのか
だれにも説明できなかった
世界はただ
そういうふうになっていたのだ
(エスキモーの歌-金関寿夫「魔法の言葉」より)
この詩は写真家の 故星野道夫さんの写真集によって出会った、エスキモーの詩です。エスキモーは、あらゆる生物と山、川、海などの無生物、そして風や月の満ち欠けやオーロラといった自然現象さえ人間と同じように生きていると考えました(アミニズム)。これらにはイヌアというそれぞれの所有者を持ち、イヌアの怒りをまねかぬため、人々の暮しはタブーに満ち、シャーマンの力を必要としていたのです。
そして、すべてに魂が宿っていました。日々の暮らしはイヌアや魂との関係ですが、異常な自然現象や予期せぬ出来事は、シラという人間を越え、神秘的な力をもつ、エスキモーにとっての最高神に近いものに属していました。
このようなアニミズムはアメリカ、カナダ、オーストラリア、ユーラシア、アジアなどの民族に共通していると思われます。
「すべてのものは生きていて、同じ心をもち、同じ権利をもつ」
“山の暮らし”によって深く実感したこれらの言葉によって、現在論議を呼んでいる様々な問題が浮き出てきました。林業の今後、環境問題、野生動物の絶滅、ゴミ問題(ダイオキシン等)、現代文明と人の心の大きなずれ。すべて、人間が自らだけを豊かにしようとした結果であり、逆に精神的な豊かさはますます遠ざかってゆくようでした。
その頃私は、仕事で森にいっても、以前のようによろこびや楽しさだけではいられなくなりました。仕事という名目で自らの手で木を倒し、無作為に動植物たちの生命を奪ってゆく・・・・・・
インディアンたちは、自然にダメージを与えない範囲で彼らの生活を営みます。狩や猟で獲物を捕らえた時、薬草や木の実を取る時でさえ感謝の祈りをささげます。私は何のために木を切っているのだろう。自分のまわりでたくさんの生命が消えてゆくのを感じていました。
人類学者のフランツ・ボアスは、
「天体を生命あるものとして考えるように教えられ、すべての動物の中に人間以上の力を見いだし、山も木も石も、あらゆるものが生命、ないしいろいろな特性を備えると信じているプリミティブな人々にとっては、同じ自然現象の解釈でも、私たちがふつう耳にしているものとでは、おそらく天地の開きがあるだろう」といっています。少なくとも彼らは、私たち、いわゆる“文明人”のように“自然”に対して傲慢ではなかったのです。
そしてついに、自分が仕事と言って、どんなことをしているのかが分かったのでした。とても傲慢で、とても悲しいことでした。
Life 4
95年の夏、ゴルフ場開発にあたって計画地の森の伐採と搬出を任された私たちは、これから姿を変えるであろう素晴らしい森にいました。森林としての生態系は守られ、野生動物の足跡は登山道のようで、落葉松のてっぺんには大きなスズメバチの巣や、タカの巣があちこちに見られました。起伏に富んだ地形は自然な沢の流れを作り上げ、麓の民の喉を潤していました。
私はもはや、その美しさに感動することができず、なぜこの自然をつぶしてゴルフをするのか、そしてなぜ自分でゴルフ場を作っているのか、納得のいかない日々が続きました。
「もうこんなことはできない!」と思い始めた、決定的な出来事は起こりました。
ある日、いつものようにコース部分の木の皆伐の仕事で、私はブルトーザーで倒された木を運び出していました。倒れた木、一本一本にワイヤーロープをかけて、10本ほどまとめて引き出すのです。3回ほど引き、次を引いたら昼食だという時でした。ワイヤーロープを持って斜面を登ってゆくと、倒れた木の横にタカの子供が2羽倒れていたのです。子供たちはまだ温かく、明らかにそれは巣のある木を倒したことによる破壊-死-そのものでした。まだ大空を知らぬまま、だれかのおなかにおさまるという生態系の中での有機的な死ではなく、文明人の営利を目的とした身勝手な行為による無機的な死でした。
私は思わず空を見やりました。するとおそらく母親であろうと思われるタカが、帰る巣を失い、ぐるぐると飛んでいました。仕事を続ける気力は無くなり小屋に戻り、あまりに大きな衝撃をどうしたらいいのか分からずに、タバコを吸うことしかできませんでした。
自分が文明人であることと、傲慢な生き物であることを痛感し、同時に罪人であることに気が付きました。そして今後、どうしたらこの罪を償えるのかを考え始めたのでした。
Life 5
人間本位の無駄な開発、便利さと機能性のみを追求したがために引き起こった有害物質による様々な被害、地球の資源の無駄使い、野生動物の乱獲による絶滅危機、そしてそれらをつかさどっている人間の悪しき心。取換えしのつかないことが多い中で、自分はどう関わっていったらよいのかしばらく悩み、二つのことが思い浮かびました。
一つは、「お前がやれ」というものでした。私自身がしっかりとした意識を持って暮す、無駄なもの、有害な物は買わない、作らない、自分が地球に対して責任を持った行動を実践するというものでした。一人一人の小さな行いによって大きな動きを引き出すことは可能だとも思いました。
二つめは、「伝えてゆけ」というものでした。私の犯した罪も含めて、自然の大切さや、文明人としての人間の位置を少しでも多くの人々に知ってもらいたい、というものでした。幸い私は、音楽という表現方法をわずかながら経験していました。伝えてゆくにはこの方法しかないと直感し、再び練習を始めした。
すると、以前テーマとしようと試みた「自然の力を源とする」という意味が、以前のそれとは全く違った不思議なパワーをもっていることに気が付きました。
私が“山の暮らし”で体験した風景と音と空気が、たくさん思い出されました。遠くから来た風が、自分のからだの中を通って行く、溢れんばかりの沢の水が幾層もの音をなして、夏の暑さを切るような冷たさで和らげてくれる、唐松の林の中の梅雨のセミたちは、小さなグループごとに掛合いをしながらコミュニケーションをしてる、雨の滴が土に流れ込む音、雪が降る透明の音、澄んだ張り詰めた空気の懐かしさ、風のない晴れわたった日の雪原の全く無音の状態、そして自分の耳鳴りと心臓の音が聞こえる・・・
知らず知らずのうちにいろいろな音が記憶されていたのでした。そしてその状態にいることが何よりも重要だと気が付きました。「どこにいても一人ではない、たくさんの生命で溢れていて、私の記憶の中にもたくさんの仲間たちがいる!」やっと自分は音楽を心から演奏できるという思いと、しなければならないという強い思いにかられて、再び演奏しようと決意できたのでした。
96年の夏の頃でした。
Life 6
もしもあなたがいい夢を見たいのであれば、
祖母である月に、
グランドマザー・ムーンに向かって祈るがいい。
もしもあなたが
古き良きインディアンの道を歩みたいのであれば、
毎朝夜の明ける前に起き出して、
登ってくる太陽に向かって祈るがいい。
わしは一日に二十四時間祈る。
生活のすべてが聖なる儀式になりうるのだ。」
(ナバホ族のメディスンマン、ローリング・サンダーのことば)
この言葉は、平河出版社から発刊されている、“ローリング・サンダー/メディスン・パワーの探求-ダグ・ボイド著”の訳者である、北山耕平氏によるあとがきの中で出会った言葉です。
今私は、東京でこの文章を書きながら、“山の暮らし”をしていた当時のことを思い出します。仕事で森に行くために、夜の明ける前に起き出して、太陽が昇っている間中森にいて、祖母である月の美しさに感動しながら暖かい家に帰る、そして今日も無事に帰れた喜びを、家族とともに分かち合っていた生活・・・
山で起こったすべての出来事-善いことも悪いこともすべて-が、私の精神を鍛え、浄化し、自分にとって何が大切なことなのかを目の当たりにしてくれました。そして、“山の暮らし”が私の心の中にある限り、どこにいようと自分の魂は自然と共にあり、生きてゆく力の源になると確信しています。同時に、いつの日にか自分の肉体が滅びるまで全力で自分と向かい合って、精神と行動のすべてが「母なる大地」の子として、恥ずかしくない生き方をする努力を続けてゆく覚悟です。
そして私の中で最も重要な音の世界は、すべての動物(人間も含む)たちの中に眠っている、文明人たちが忘れてしまった“太古の記憶”の情報であふれているように思えてなりません。自然の中で聞こえてきた音の数々は、本当はだれもが知っていて忘れているだけではないでしょうか。日々の暮らしの中で失われがちな感受性を、ほんのちょっと開けば、たとえ都会であってもいろいろな地球の音に出会うことができます。そう言った身近な自然の音を聞いていると、どこかで今でも野生の中で暮しているシカやウサギ、タヌキやキツネ、人間の知らない山奥や海の中での営みが脳裏に浮かんできます。そして皆元気にしてるかな、と思うのです。自分の演奏からそんな音が奏でられたらどんなに素晴らしいことでしょう。私のようなものがそんな大それたことをできるはずがない、と思ってしまうことのほうが多いのですが、「母なる大地」の子として努力し、信じれば必ず可能だと思います。
自分の中の大切なことを深く愛して思い、強く信じて行動することこそが重要なのだと言うことを知りました。きっとこのことはすべてに通ずるのでしょう。
ローリング・サンダーは、
公害の原因はもともと人間の心にある。
機械に原因があるのではない。
もしある人間がある機械を発明したとして
その時に間違った考えを持っていたら、
たとえば強欲なことに自分一人のために
何百万ドルも稼ごうだとかいうような
悪い考えを一つでも持っていたとしたら、
その機械は煙を出して、
やがて公害を撒き散らすことになるだろう。
機械は不完全なままとどまる。
古代の人たちは、多くが純粋な心を持っていたから、
公害なんてものを心配する必要もなかった
といいます。
私たちが抱えている様々な問題に参考となるこの言葉にも勇気づけられます。純粋な心を持って害をなくす・・・音楽の世界もまた同じでしょう。
私たちはこれまでほとんどのものを細分化し、専門家してきました。その事によって、多くのくいちがいや過ちが起こっているように感じます。もっと大きな目を持って感じることが必要なのではないでしょうか。そして“大きな目”とは、ローリング・サンダーのいう古代人が持っていた“純粋な心”ではないかと思います。
Hope 1
今後も、“母なる大地”の子として“純粋な心”を忘れることなく、精一杯今を生ききる努力を続けてゆきたいと願っています。そしてできるだけよき音とよき旋律を探求してゆきたいと願っています。
・・・・Peace・・・・
Tuesday February 24th, 1998